小学校の入学式で、母と手を繋いだことを覚えています。
母は手を繋ぎながら、ピアノを弾くように指を動かしていました。
私はその時、母と手を繋いで嬉しい気持ちと、自分も握り返して良いのかという二つの気持ちで揺れ動いていました。
自分も手を握り返して、振り払われて傷つくのが怖かったのです。
一緒に寝ているときに母と自分の足がくっついたときも、嬉しい気持ちと振り払われたらどうしようという気持ちで身動きがとれませんでした。
実際にはそんなことはないのですが、私はいつも親に拒否されたときに自分が傷つくことが最小限で済むように自分を守っていた気がします。
祖母への態度とは対照的に、私は母に「こうしてほしい」「これがほしい」等ということはほとんど言いませんでした。
思い切り母に甘えるということが出来なかったのです。
それは、自分がいつ自分が拒否されるかわからない状況で私が無意識のうちに身に着けた防衛反応だったのかもしれません。
私は今、毎日二人の子どもと一緒に川の字で寝ています。私が真ん中です。
二人とも寝相が悪いので、蹴られたり、狭かったりで夜中に目を覚ますこともよくあります。
朝まで熟睡という訳にはいきませんが、私は子どもたちと寝る時が一番幸せです。
寝る前に子どもが「抱っこして」と言うので、思い切り抱きしめます。このとき、とても幸せで心が満たされた気持ちになるのです。
その日あった嫌なこともすべて「どうでもいい」と思えるくらいです。
本当に子どもからたくさんの幸せをもらっています。
「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」(岡田尊司著)によると、「抱っこという実に原始的な行為が、子どもが健全な成長を遂げるうえで非常に重要なのである。それは、子どもに心理的な影響だけでなく、生理的な影響さえ及ぼす。子どもの成長を促す成長ホルモンや神経因子、免疫力を高める物質、さらには、心の安定に寄与する神経ホルモンや神経伝達物質の分泌を活発にするのである。」と記されています。
私の愛着は不安定で傷つき、子どものころのまま成長していません。未熟なままなのです。
そのため、どうすることもできない不安や孤独感といったものに苦しんできました。
しかし、今子どもたちと肌をくっつけ合うことで、私は自分の愛着の傷を癒し、再構築をしていると思っています。
キルケゴールは他人ではなく自分自身に対しての関係がうまくいかずに、自暴自棄になったり、投げやりになったときに「絶望」が生じると述べています。
死にたくても死ねない、生きながら死んでいるような状態が「死に至る病」です。
私は母になることで、「死に至る病」から救われたのです。
引用:「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 岡田尊司著 (光文社新書) P21
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