幼少期
子どもの頃、私はいつも周りの子と比べられて育ちました。
特に、父方の祖母が私と周りの友達をよく比べていました。
「○○ちゃんはここまで出来ているから、あなたももっと頑張らないと、このままでは負けてしまう」
「テストは○○ちゃんより出来たの?」
そんなことばかり言われていたように思います。
祖母は怒ったり、大きな声を出すと言うことはありませんでした。
どちらかと言うと、穏やかで、優しい人でしたが、とても勝ち負けにこだわる人でした。
そして、周りからどう思われているか、世間体というものをとても気にしていました。
本当に今思えば、異常です。
すごく気持ち悪いです。
でも、この頃の私はこれが当たり前でした。
幼少期からそのように育った私にとって、友達は助け合う仲間ではなく、勝たなくてはいけない相手でした。
そのように友達と比べられると、友達を貶めてついてでも褒めてほしくなりました。
そのため、私は親や祖母に友達の悪いところや失敗したことを話し、それによって自分を褒めてもらうという姑息なことを幼少期の頃からしていました。
その背景には、自分を認めてほしい、もっと褒めて愛してほしいという欲求が隠れていたように思います。
どんな成績でも、負けても勝っても、何もしなくても、私を私のまま愛してくれていると伝えてくれていたなら、私はもっと友達を大切にして、自分に自信も持てていたことでしょう。
全てを決められる
私が子どもの頃、父親の言葉は絶対でした。
それは親の言うことを子どもは疑わずに信じてしまうということも、もちろんありましたが、やはり父を怒らせると怖かったからです。
私は父に怒られないために、父の顔色を伺い、父の喜ぶ答えを選び、父が怒らないように行動しました。
そこに私の意思など、ほとんどありませんでした。
父も祖母と同じで、世間体や見栄を気にする人でした。
「そんな馬鹿みたいなことはするな」
周りから馬鹿にされないように、舐められないようにと常に考えていたようです。
思えば、父は被害妄想があり、物事を悪く考える人でした。
こちらがそんなつもりはなくても、自分が“こう”と思えば、何を言ってもダメでした。
そこから機嫌が悪くなり、謝っても許してもらえず、険悪な雰囲気で数日生活しなければいけませんでした。
父に何を言われても、嫌な表情はせず、いつも父の望んだことを言ったり、するようにしていました。
本当に地獄のような日々でした。
私は休日よりも、学校に行って、家から離れている方が楽でした。
そして、父は私の交友関係にも口を出していました。
「この子と仲良くしなさい」
「あの子とはあまり遊ばない方が良い」
などのようによく言われました。
本当に異常です。
私は自分にやりたいことがあっても、それを口には出さず、父が“恥ずかしくない”と思うことを選んで生きていました。
自分がどうしたいのか分からない
そんな風に育ったせいか、私は大学を卒業する時に、このまま社会に出て良いか不安になりました。
卒業式の日に、不安で不安で涙が出たのです。
それは、今まで自分の意思で決めてこなかったために、自分で選択した将来が怖くてたまらなかったのです。
『看護師になるために、看護大学へ行く』
というのも、父が言い始めたことでした。
私の意思が全く入っていない訳ではないですが、父に言われて、そうした部分は大きいです。
そうは言っても、20歳を過ぎて社会に出てしまえば、親のせいにしている訳にはいきません。
不安に押しつぶされそうになりながらも、私は社会に出て働きました。
看護師になって後悔はしていませんが、幼少期にもっと自分で選択し、周りの反応を気にせずに生きていたら、私はどんな選択をしたのかと考えることはあります。
私はこの経験から、自分の子どもには自分で考え、選択していってほしいと考えています。
道を違えそうになれば、助言はしますが、自分の将来については自分で選択してほしいです。
そして、どんな選択をしても子ども達を愛していることに変わらないことは伝えていきたいと考えています。
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