物への執着

私は子どもの頃、物への執着が異常でした。

祖母が近くにいた時は、欲しいものがあるとすぐに買ってもらえました。

「買わない」と言われると、癇癪を起こして買ってもらっていました。

しかし、祖母と会えなくなると、私は自分の欲求が満たされなくなってしまいました。

両親は、私たちに必要な物しか買ってくれませんでした。

必要な物とは、私たちではなく両親が必要だと思った物だったので、買い与えられる物はいつも私が欲しい物ではありませんでした。

買ってくれないと分かっていたので、私は両親に「これが欲しい」と言うことさえありませんでした。

小学一年生の頃、私は友達が持っていたキーホルダーをとってしまいました。

「買ってもらった」と見せられたキーホルダーが、私は何故か無性に欲しくなり、力づくで手に入れようとしたのです。

当然すぐに私がとったのがバレて、先生に呼ばれました。

「なぜとったのか」という先生からの問いに、私は答えることができませんでした。

自分でもなぜそのキーホルダーがそれほど欲しかったのか、分からなかったのです。

その後、両親にそのことが伝わり、私は父から長い長い説教を聞かされました。

内容は「なぜ人のものをとってはいけないのか」ということだったと思いますが、正確には覚えていません。

覚えていなかったのは、私がまだ幼かったからというだけでなく、私が父の話をいつもほとんど聞いていなかったからです。

父の話は長く、同じことの繰り返しでした。

私に発言はさせず、自分の意見ばかりをくどくど語るだけで、私には一切響いていなかったのです。

先生や父から怒られた後も、私に罪悪感はありませんでした。

「バレて恥ずかしい」「また怒られたくないから、とるのはやめよう」というくらいにしか思っていませんでした。

誰も私が「なぜこんなことをしたのか」ということの根本的な原因は考えず、反社会的問題行動にだけ着目していたのです。

私も「誰かのものをとる」ということが悪いことだと分かっていました。

そして、少し考えれば、すぐにとったことがバレると想像がつきます。

それでも、やめられなかったことが問題なのです。

幸か不幸か、私は父が怖かったため、これ以上の問題は起こしませんでした。

しかし、物への執着は親元を離れて、一人暮らしを始めた頃に再燃します。

自分のバイト代や生活費まで、服を買うことに充ててしまったのです。

買っても買っても物欲が満たされず、着ないような服も買って、タンスにしまって満足するのです。

結局、着ないで処分した服もたくさんあります。

「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」(岡田尊司著)によると、「愛情飢餓を抱えやすい愛着障害の人にとって、物やお金は『愛情の代用品』となるのだ。」と記されています。

私にとって、物への執着は愛着への執着そのものだったのです。

いくら代用品を手に入れても、本物が手に入らなければ、満たされることはありませんでした。

父はいつも私たちに「うちにはお金がない。だから無駄遣いは出来ない」と言っていました。私は子どもの頃、ずっとこのことを聞かされていました。

そのため、誕生日やクリスマスのプレゼントも本当に欲しい物ではなく、買ってもらえそうなものを頼んでいました。

自分が親になって思うのは、たとえ今しか使わないおもちゃであったとしても、子どもの喜ぶ顔を見れるのであれば、それは無駄遣いではないということです。

子どもたちの喜ぶ顔を見ると、「買って良かった」「嬉しい顔が見れて幸せだ」と私たちも感じることができるからです。

子どもたちをよく見ていれば、何が欲しいのか分かりますし、子どもが何が欲しいかを素直に言える環境作りも大切です。

愛着はお金では買えません。

しかし、お金がなくても愛着形成を行うことは出来ます。

親が子どもの安全基地になること、それは何にも替えられないギフトなのだと思います。

引用:「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 岡田尊司著 (光文社新書) P143

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この記事を書いた人

こんにちは。やなです。
2児の母で、看護師です。
何気ない日常や好きなこと、趣味、少し重い過去の話など書いていきます。
記事によってテンションが違いますが、お付き合いいただけると嬉しいです。

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